著者の山崎正博です。
私が、これまでに何をしていたのか?
どのような経緯で株式投資をすることになったのか?
そして、その方法をどうして公開するに至ったのか、
その背景をお話します。
これは、前編と後編に分かれています。
共に少々、長いですがお付き合い頂ければ幸いです。
前編:波底投資法の誕生まで
1992年春
大学を卒業し、会社に就職。
会社は、当時の社名を日○石油(株)といいました。
当時は、セナやプロストといったF1ドライバーが活躍し、私も「モータースポーツに関連した仕事もいいな」と思い、会社を決めました。
それに、就職した学校の先輩の話では、「石油会社の仕事って楽(らく)そう」そんな印象も会社を決めた理由でした。
最初の勤務は、北海道の工場でした。
関東の工場に希望を出していたので、北海道勤務が決まった時にはちょっとショックでした。
でも、もともと実家も学校も北海道だったので、「まっいっか」くらいに思いました。
1994年春
北海道の工場内で職場が異動。
自分が当時、一番やりたくない仕事、「工場の生産管理担当」となってしまいました。
工場の生産管理とは、「石油の原料(原油)をどのように処理すると需要に合うのか?」という計画を立てて、その計画通りに工場が動いているのか日々チェックする仕事でした。
私が思っていた通り、工場の中で一番、忙しい仕事でした。
「石油会社の仕事って楽そう」と思って就職を決めたのが間違いの元でした。
1995年夏
工場の生産管理の仕事の忙しさがピークに達した頃でした。
なぜか毎週、木曜日の夜になると工場の生産ラインでトラブルが発生し、夜中・時には朝方まで仕事をする日々でした。
当時は、魔の木曜日と呼んでいました。
工場の生産管理担当となってからお酒を飲む回数が増えました。
たぶん、毎日がストレスの日々だったのだと思います。
ところが、95年の夏ころは、あまりの忙しさにお酒を飲む時間も取れないくらいでした。
毎日、朝7時半から夜11時までの仕事、そして、週に1回は朝3時・4時までの仕事をするという日々を送っていました。
この当時、私は「自分は、これだけハードな仕事をこなして何でもないのだから、けっこう丈夫だな」そんなことを思った記憶があります。28歳のころでした。
ところが、私は、それほど丈夫ではなかったのです。
ある月曜日の朝、起きると腹痛と下痢の症状がありました。
胃腸薬を飲みました。
最初は、「強力わかもと」や「ビオフェルミン」などの整腸作用のある軽い薬でした。
腹痛と言っても、胃の辺りが痛い感じがしたので、胃薬も飲みました。
少し、症状が良くなったような気がしたので、整腸剤と胃薬を併用していました。
それでも症状が、改善しないので、発症してから6日後の土曜日、病院へ行きました。
尿検査や血液検査などを行った結果、医者に言われました。
医者:「肝機能が低下しています」
「はっ?」私は、一瞬、意味が理解できませんでした。
医者:「γーGTPの値が高いですね。お酒の飲みすぎでしょう。お酒は控えてください。」
私は、意味が分かりませんでした。
γーGTPの値が高いというのは、確かに、酒飲みに特有なこととは聞いてましたが、
私は、ここ1ヶ月くらいお酒を飲んでいませんでした。
それなのに、なぜか肝臓の調子が悪いという検査結果だったのです。
そのとき、私に思い当たることは1つしかありませんでした。
「仕事のしすぎ」
これ以外思い当たりません。
実際、病院へ行った翌週からは、ちょうど夏休みをとる予定だったので、7日間、完全に仕事から離れることができました。
そして、夏休みに入って数日後、あの胃痛と下痢は、まったく無くなったのです。
「やっぱり、仕事のしすぎで体の調子が悪くなったんだ」
そう思いました。
私は、この検査結果を聞くまで、仕事は、全力で取り組むものと思っていました。
実際、私は、月曜日にはエネルギーはあっても、金曜日になるとお酒を飲む気力が無くなるほどエネルギーを使い切っていました。
金曜日に飲みに行って、アルコールを口にすると、気持ち悪くなるという状態もありました。
ですから、金曜日に職場の同僚が、飲み会をするという話を聞くと
「金曜日にお酒を飲むエネルギーが残っているなら、そのエネルギーを残らず仕事に使え!!」
そう思うくらい熱く仕事をしていました。
しかし、その結果が、肝機能の低下でした。
そして思いました。
「会社の言いなりで仕事をしていたら、絶対、体を壊す。会社は、私を守ってくれない。自分を守るのは、自分だけだ。」
そういう思いから、
「与えられた仕事すべてを全力で取り組むことには無理がある。 手を抜くところは、抜いて、80%の力で仕事をすることにしよう。」
そう考えるようになったのです。
1996年春
転機が訪れました。
北海道の工場から、横浜のみなとみらい21に本社があるエンジニアリング会社に出向が決まったのです。
石油会社からエンジニアリング会社への出向というのは過去に例がなく、石油会社は、「社員教育の一環」、エンジニアリング会社は、「お客さんとの関係強化の一環」という目的でテスト的に行われた出向でした。
(エンジニアリング会社とは、工場の建設を請け負い、建設のリーダーとなる会社のことです))
エンジニアリング会社にとって石油会社はお客さんです。
お客さんの社員もやはりお客さんだったのです。
私は、1年くらい、まともな仕事をさせてもらえませんでした。
しかし、もともと「全力で仕事はしない」という考えに変わっていたので、「どうせずっと続く訳ではないので、こんな状態でも良いかな」と漠然と思っていました。
そんなヒマな状態だったので、あることを考えていました。
それが、「金融商品の研究をして投資をしてみよう」ということだったのです。
「サラリーマンの給料だけでは限界がある。それを補うものが必要だ。それには自分が働かないでお金がお金を生む金融商品への投資が良いだろう」そんな考えがあったと思います。
最初は、いろいろな金融商品について解説がある本を買って読みました。
しかし、結局、何に投資してよいのかが分からず、結局持っていた貯蓄は、すべて銀行の定期預金に預けたのでした。
それから、金融商品についてマネー雑誌などで研究してきました。
そして、いろいろと研究しているうちに、私は、株式投資をしたいと思うようになったのです。
しかし、1996・7年当時は、日本の株式市場の環境が非常に悪く、利益の出る投資が出来ないだろうと考えていました。
逆に、その当時景気が良かったのが、アメリカ・ヨーロッパでした。
アメリカは、ニューエコノミーといってIT革命によって株式市場が拡大していました。
ヨーロッパは、ユーロ導入前の準備で、株式市場も盛り上がっていました。
ですから、「投資するならアメリカ・ヨーロッパ中心だ」と考えていました。
しかし、いきなり海外の個別株式に投資をするのは無謀すぎると考えた私は、海外の株式を扱う投資信託(ファンド)に投資しようと考え、研究し、いくつかの海外の株式を扱うファンドに実際に投資してみたのでした。
これが、初めてリスク商品に投資した経験でした。
1997年頃の話でした。
そうして、リスク商品への投資を経験した私に、ちょっとした悪魔のささやきが入ってきました。
それが「先物取引」でした。
そのささやきは、サ○○○ズ貿易という先物仲介会社の若い営業マンからでした。
(この会社は、いまでも営業してます。)
私は、実際に投資はしていないものの、金融商品の研究はしていたので、先物取引についての概要は知っていました。
営業マンの度重なる電話と、その当時、日本の株式市場にはまったく魅力が無かったこと、そして先物取引についてのリスクについての知識は少しだけあったこと、これらのことから私は、先物取引をすることになったのでした。
この少しだけの知識が曲者(くせもの)でした。
私は、知識と現実の違いを思いっきり知らされるのでした。
その結果、私は、3−4ヶ月で150万円くらいの損をしました。
この先物取引をしていた数ヶ月間は、ほとんどが含み損(実際に損が確定していないが、計算上、損をしている状態)を抱えていたので、明らかにストレスを抱えていました。
夜の寝つきが悪くなり、収まっていた持病が再発してしまいました。
そのとき、「これはもう駄目だ。これ以上、続けたら体がおかしくなる」そう思い、取引をすべて終了させて、損を確定したのでした。
こうして、私の先物取引経験は、大損で幕を閉じたのでした。
*)ここでは簡単に書きましたが、この時の体験は、いづれまとめたいと思います。
私は、先物取引を経験したことで、こんな結論に至りました。
○営業マンのいうことは信用しない。
○先物取引のような期限付きの取引はしない。
○いくら知識があっても、最初から大きな投資はしない。
これが、1998年の春ころのことでした。
そして、こんなことを考えたころ、「日本の株式市場が、そろそろ回復するのではないか?」という漠然とした思いがあり、株式投資へと再び、興味が向かったのでした。
最初の投資は、先物取引の経験から小さくしようと考えたので、株式投資は、ミニ株から始めました。
当時は、国内株式の口座管理料が、有料のところもありましたので、私は、無料のところを選びました。そして、投資できる株式の数も多い証券会社を選びました。
それが、大○證券でした。
そうして、あるとき、「このあたりが株式市場の底(株価が一番低いところ)だろうと思い、知っている会社、4社に投資しました。
投資金額の合計は、50万円くらいでした。
投資してから数ヵ月後、予想通り、株式市場全体が上昇ムードとなりました。
そうして、私は、保有していた株式を売却し、株式投資で初めて利益を手にしたのでした。
1999年の春のことでした。
私は、利益を手にした後、考えました。
「このやり方は、これからも通用するのだろうか?」
「これだと、ほとんどカンで投資しているようなものだ」
「しっかりとデータで判断して投資する方法はないものだろうか?」
そう思っていました。
そうして、ある方法を本で見つけまた。
その方法は、表計算ソフト エクセルに計算式を入力すれば、誰でも簡単に、高確率である銘柄の底値が判定できるという方法であると書いてありました。
そこで、その方法を試すべく、パソコンを購入し、エクセルに計算式を入力し、いくつかの銘柄をその計算式を使って買うタイミングを計りました。
この時、買いタイミングを計っていた銘柄は、やはり「知っている会社」でした
そして、ある時、その計算式で買いのタイミングであることを判定した銘柄を購入しました。
ところが、その銘柄は、私が購入した後、ちょっと株価が上がったと思ったら、更に下げ始め、どんどん下がっていったのでした。
何度も、その計算式に従うと買うタイミングになっているのですが、なんとなく恐くて再度買うことが出来ませんでした。
そうして、株価がかなり下がったにもかかわらず、私は、「知っている会社」を選んでいたので「いつかは、また株価が上がるだろう。」そんな勝手な思い込みを持ちながら、その株を売却しないで、そのままにしておきました。
この計算式を使う投資法は、確かにデータで買うタイミングが分かるのですが、それが、買った後、確実に値下がりしないで上昇するということが分かりませんでした。
「もっと確実に、下がったあと、上昇するという判定が出来ないだろうか?」
そう考えて、またいろいろなノウハウを探していました。
そうして、たどりついた方法が、「株価が上がった、下がったりする銘柄を選び、下がったら買い、上がったら売る」という波底投資法の原型となった方法でした。
これが1999年の秋でした。
私は、この方法に自分なりのアレンジを加えながら、実践してきました。
その結果、波底投資法が生まれたのでした。
ちなみに、計算式を使って買いのタイミングを計り、購入した銘柄は、2001年に倒産し、株価が2円になってしまいました。
1999年に波底投資法の原型が確立されました。
それ以降、この投資法を実践しきました。
そうして、実践だけでなく、こうしてノウハウとして公開するにどうして至ったのか?
それをお話したいと思います。
後半も少々、長いですがお付き合い頂ければ幸いです。
後編:波底投資法の実践から現在まで
1999年に波底投資法の原型が確立されました。
ちょうど、その頃、私にも仕事上の転機がありました。
エンジニアリング会社への出向が終了し、元の石油会社に戻ってきたのです。
石油会社では、工場勤務でしたが、今度は、関東の工場でした。
そして、そこでは、発電設備建設プロジェクトを担当することなったのです。
石油会社は、将来の生き残りを賭けて、新たな事業に手を付けたのです。
それが、電力会社に電気を販売するという事業でした。
社運を賭けたといって良いほどの大プロジェクトでした。
当然、私も担当者として、ヒマであるわけはありませんでした。
北海道工場での生産管理担当の頃ほど激務ではないにしろ、毎日、朝8時から夜10時ころまで仕事をしていました。
ゆっくり出来るのは、週末くらいでした。
しかし、幸いなことに波底投資法は、それでも利益を得ることができました。
1999年以降の4年間で平均すると年、50万円程度の利益を得ることが出来ました。
この波底投資法を実践してきた4年間は、株式投資の研究よりも、経済・社会の動向を研究していました。
というもの、波底投資法は、経済・社会の動向を考える必要がある投資法だったからです。
そして、私は経済・社会の動向を研究するうちに、石油会社の社会的な意義や将来の会社像、そして自分自身の会社でのあり方を考えるようになったのです。
そんな時、次の転機が思いがけなくやってきました。
それは、昇進でした。
工場の生産現場の係長(生産ラインの設備長のような地位)を命ぜられたのです。
2001年春のことでした。
私が、生産現場の係長になると、不思議なことに設備のトラブルが頻発しました。
そして、ある時、人命を危険にさらすほどの原因不明のトラブルが発生したのでした。
原因不明であったにも関わらず、トラブルの徹底究明をあいまいにしたまま、設備を動かし続けた結果、そのトラブルは3度発生したのでした。
私は、現場の係長としてこの問題にかなり頭を痛めました。
しかし、結局、原因はよく分からなかったのです。
私は、なぜかこのトラブルの発生について自分を責めました。
誰かが私に責任があると言ったわけでもないのに・・・。
そうして、トラブルの原因が不明のまま、数ヶ月たったあるとき、私は、朝起きて会社へ行けなくなっている自分に気がつきました。
いわゆる「うつ病」というものです。
そして、思いました。
「このままではまずい。この仕事は辞めて、転職を考えよう」
しかし、この時は、転職の当てなどまったくありませんでした。
そんな頃、妻に仕事の誘いがありました。
妻は、その仕事をしたかったので、妻と私が共に働くということも考えていました。
そうして、数週間たったあるとき、会社が特別早期退職制度というものをやると発表したのでした。
私は、「ここが辞めどきかも」そう思いましが、転職先も決まっていないので、いくら妻が働くといってもどうしようか」そう思っていました。
私が、迷っているいると「行動しないで後悔するより、行動して後悔したほうがいいんじゃない?」という妻の言葉で辞める決心をしました。
そうして2002年の夏に石油会社を退職しました。
うつ病のこともありましたが、社会や経済の動向を考えるようになって、将来の石油会社像や私の会社での将来像が描けなくなっていたので、辞めると決めた後、不思議と後悔はありませんでした。
会社を辞めた後、転職先を決めなかった私はどうしたのか?
それは、主夫となったのです。
会社を辞めた頃、私には、10ヶ月になる娘が1人いました。
妻は、仕事がありました。
しかも、かなり不規則な仕事でした。
そんな訳で、私が娘の面倒を見ることになったのでした。
私は、家事・育児をしなかがら、自分のこれからのことをいろいろと考え、模索していました。
自分の将来を考える上で中心になったことは、「自分のライフワークって何だ?」ということでした。
ですから、本や講演会、セミナーなどに参加してライフワークについて深く研究してきました。
ライフワークの研究をする一方で、私は、主夫をしながら収入を得る方法は無いものかと研究し始めました。
その研究の結果、インターネットを使った情報ビジネスが、主夫には合っているという結論になりました。
しかし、ライフワークを研究してきた私にとって、「ライフワークにつながる情報ビジネスとは何なのか?」
それが大きな課題でした。
そんな課題について考えていたとき思いついたのでが、私がこれまで実践してきた株式投資のノウハウでした。
そして、私の持つ株式投資のノウハウをまとめているうちにいくつか重要なことがわかってきました。
○私が実践してきた株式投資の方法を人に説明するときは、楽しそうに見えるらしい
○仕事を辞めるキッカケの1つが会社での自分の将来像を描けなかったからだが、それは、株式投資を行っていたからそのような考えになった。
○2002年の春に「うつ病」になったときも株の売買をしていたという記録がある。
(そんな大変なときでもやっていたということは、そこに何か自分にとって重要なものがあるはず)
○私がやっている株式投資のやり方は、昔、「親に止めなさい」と言われるほどやった「バッタ取り」に似ている。
○私は、物事が並行に進むことが好きらしい。その証拠に、学生時代、テストの勉強は、時間をかけて、すべての科目を満遍なくやりながら勉強していた。だから、サラリーマンをしながら株式投資をするということが好きだったなのだ。
このようなことから、私が実践してきた株式投資は、何か特別な存在であるということが判明し、これを元に情報ビジネスを展開しようという結論に至ったのです。
こうして、この「波底投資実践コース」が誕生したのです。
そして、私は、2004年2月にエム・エス・クリエイトを設立、インターネット上でこの講座を販売開始したのでした。
以上が、波底投資法の誕生と実践コース公開に至るまでの過程です。
楽しんで頂けたでしょうか?
なお、コースに関するお問い合わせなどがあれば、info@streamcreate.com までメールでお問い合わせ下さい。
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